第7回 厚生連高岡病院のレジェンド・豊田文一先生
当院史の中で最も偉大な人物は誰か?と問われれば、わたしは躊躇することなく第4代院長(昭和30-38年)豊田文一先生の名を挙げる。先生は昭和15年に31歳の若さで当院耳鼻咽喉科医長として就任された。医師会との軋轢を緩和するため立ち上げた「産組病院医学集談会」は、「高岡市医師会医学集談会」を経て「富山県医学会」へと発展した。今年長年の使命を終える看護専門学校も豊田先生により設立された。農村医学研究、大火災からの再建と円形病棟の設立など、先生の業績は筆舌に尽くしがたい。その後、金沢大学耳鼻咽喉科教授、金沢大学医学部長を経て金沢大学学長を歴任され、晩年は高岡を拠点に県の要職に献身された。黒柳徹子さんから抗議の手紙をもらったというエピソードが好きだ。吃音に関する研究は、数ある豊田研究の一つである。幼児が早口テレビタレントの真似をすることが吃音の一原因であると講演でいわれたところ、ある週刊誌が話を大きくし、「吃音は徹子のせいだ!」という記事をだした。そこで、黒柳さんが豊田先生に抗議の手紙を書いた。先生は、医学的データを根拠に誠実な返答をしたところ、黒柳さんの早口は改善された?!らしい。
「探究心と先見性、そして茶目っ気に溢れる豊田先生なくして厚生連高岡病院はなし」
時代こそ違え、先生と同じ場所で汗を流せることを誇りに思う。
(文:鳥畠康充)