第4回 全国初の産業組合病院、産声を上げる
高岡病院の生みの親、田中勝二郎は新湊・作道村の産業組合員(現JA)であった。近くに住む働き盛りの小作人が野良仕事中に脳卒中で倒れ、なすすべなく亡くなった。大黒柱を失った家族を容赦ない小作料の取り立てが攻めたてる、そんな光景に心を痛める日々が続いた。
昭和6年、高岡の伏木において産業青年連盟(現在の農協青年部)の県の大会が開かれた。大会では農業恐慌からの農村経済復興について議論が終わり、閉会された。と、その直前、田中がすっくと立ちあがり発言を求めた。「医療費の心配をすることなく安心してかかれる我らの総合病院を作れないだろうか」。若干26歳・農民青年の夢物語とも思える主張に、農協の県幹部の宮崎清造が膝を打って「田中さん、あんたの言うとおりだ。必ず実現しよう。」
5年後の昭和11年9月29日、産業組合病院(産組病院)は産声を上げた。それまで全国的には、一地区のJAが単独で医院をもつ形態であった中心であったが、「全県一円の農家組合員を利用者」とする農協の連合会としたのは、当院が全国で初めてであった。現在、電話番号下4桁(3930)は、産(3)組(93)にルーツをもつ。
しかし、この初産は、空前絶後の難産となった。産婆の数が全国一少ないからではない。全国一激烈な設立反対運動にあったからだ。こともあろうか、抗争の相手は富山全県の医師会であった。
(写真所蔵および時代考証:大浦栄次 文:鳥畠康充)