第2回 大火からの復興
病院の8割が焼失した産組病院(当時の名称である)。焼け焦げた柱しか残っていない。病院経営陣は、「農協に再建は不可能である。もし存続できるとすれば経営権を県に移管するしか道はないだろう」という意見が趨勢を占めた。一方、看護師たちは、「泣くのは、焼け木を拾ってからにしよう」を合言葉に、歯を食いしばって再建を目指した。彼女たちの一途な想いと、開設以来18年間愚直に培った当院への信頼は、再建を要望する農家組合員や地域住民による怒涛の声を創出し、市や県を突き動かした。とどめとなったのは当時の農林政務次官が、「産組病院は絶対存続すべし。国は資金援助に全力を尽くす」と決意表明したことである。
「おらが病院を潰すな!」
農林次官の決意表明に呼応した県下270すべての農協から、半年もしないうちに再建に要する清銭が次々と集まった。
ここで、一つの疑問が生じる。なぜ、一民間地方病院に国がこれほどまで肩入れしたのか?
答えは至極明快である。その政務次官・内藤友明が高岡人だったのだ。彼は、10年に及ぶ衆議院議員の後、新湊市長として富山新港の開港に心血を注いだ。裏日本と呼ばれ続けた屈辱をバネに富山県から新たな時代を開拓しようとしたのだ。
郷土愛にあふれる偉人が、たまたま病院焼失という大災難時に農林政務次官のポストにいた奇跡- – – 。
「産組病院よ、お前は郷土のために生き延びよ !」
焼け野原の遥か上空で、天の声が雷鳴のごとく轟き渡った。
(写真所蔵:大浦栄次 文:鳥畠康充)