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厚生連高岡病院

〒933-8555 富山県高岡市永楽町5番10号
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ニュース&トピックス

写真から紐解くホスピタル・ヒストリー

第8回 円形病棟

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昭和29年の病院焼失からわずか1年あまり、農協病院のシンボルである円型病棟が完成した。全県農協の温かい支援に加え、大火のわずか10日前に火災保険を倍増していた偶然も重なり約7千万円の建築費用を捻出できた。豊田先生が「病室の外側が丸くなっているので隅の空間がなく広く使えた」と述べた「厚生事業50年の歩み」には、総婦長であった藤本ふみ氏が、「エレベーターがなく勾配の強いスロープで頻繁に患者運搬車を押したおかげで、腕力と脚力が鍛えられた」、「円型なので歩いても先が見えない、扇型の部屋であるため寝台をいくら置き換えても真っ直ぐに見えない、円型ノイローゼのいう言葉が生まれた」、「竣工翌日から水漏れのない日は1日もなかった」などエッジの効いた文章を書き残している。当院の誕生から青年期までの30年を8回にわたって連載した本シリーズは、今回をもって終了とする。僕たちは今、厚生連史の中でどの辺にいるのだろうか?僕たちは今、どこに向かって走っているのだろうか?
最後に、写真提供と時代考証をいただいた大浦栄次氏と、ご愛読いただいた皆様に深甚なる謝意を表す。ありがとうございました。

(文:鳥畠康充)

第7回 厚生連高岡病院のレジェンド・豊田文一先生

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当院史の中で最も偉大な人物は誰か?と問われれば、わたしは躊躇することなく第4代院長(昭和30-38年)豊田文一先生の名を挙げる。先生は昭和15年に31歳の若さで当院耳鼻咽喉科医長として就任された。医師会との軋轢を緩和するため立ち上げた「産組病院医学集談会」は、「高岡市医師会医学集談会」を経て「富山県医学会」へと発展した。今年長年の使命を終える看護専門学校も豊田先生により設立された。農村医学研究、大火災からの再建と円形病棟の設立など、先生の業績は筆舌に尽くしがたい。その後、金沢大学耳鼻咽喉科教授、金沢大学医学部長を経て金沢大学学長を歴任され、晩年は高岡を拠点に県の要職に献身された。黒柳徹子さんから抗議の手紙をもらったというエピソードが好きだ。吃音に関する研究は、数ある豊田研究の一つである。幼児が早口テレビタレントの真似をすることが吃音の一原因であると講演でいわれたところ、ある週刊誌が話を大きくし、「吃音は徹子のせいだ!」という記事をだした。そこで、黒柳さんが豊田先生に抗議の手紙を書いた。先生は、医学的データを根拠に誠実は返答をしたところ、黒柳さんの早口は改善された?!らしい。
「探究心と先見性、そして茶目っ気に溢れる豊田先生なくして厚生連高岡病院はなし」
時代こそ違え、先生と同じ場所で汗を流せることを誇りに思う。

(文:鳥畠康充)

第6回 殉職者が守ってくれた

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不遇の出生となった産組病院は、幼少期においても、きな臭い硝煙の匂いを嗅ぎ、軍靴の響きを聴きながら育った。気鋭の職員が次々と戦地に送られる中、残された職員たちの献身的な医療活動と学術活動が、すこしずつではあるが医師会員の気持ちを和らげ、じわじわと県民の信頼を勝ち取っていった。昭和16年の北日本新聞には、チフスで殉職した6名の職員たちを「防疫戦線に命を捧ぐ。死も本望の堅き決意」という記事が掲載されている。彼女たちもまた、国を守る防人(さきもり)であった。また、当院に長らく勤務され金沢大学学長まで歴任された豊田文一先生は、「医療技術について切磋琢磨する事であれば、 医師会の先生方とも一緒に手を携えていけるのではないか」との思いから、県医師会に呼びかけ「富山県医学会」を設立された。戦後の混乱期であったが、この会を通じて医師会の先生方は少しずつ当院勤務医たちと心通わし始めた。戦後72年の今年1月、第71回の富山県医学会が開催される。

(文:鳥畠康充)

第5回 激しい設立反対運動

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昭和11年9月、当院の前身である産業組合病院(産組病院)は産声を上げた。全県の農協連合会が一致団結して設立した、全国初の病院である。しかし、この初産は、空前絶後の難産となった。全国一激烈な設立反対運動にあったからだ。抗争の相手は、こともあろうか、富山全県の医師会であった。当時の新聞見出しには、「呉西医政調査会、印刷物配布にて産組病院を攻撃」、「県下全医師団体、一斉に立って徹底的反対運動」、「知事認可すれば報復手段やむなし」など、おどろおどろしい文字が踊る。報復手段とは、①警察医・学校医などすべての公職の辞退、②健康保険医の辞退、③産業組合員の診療を拒絶、という過激なものであった。大きな政治問題にまで発展し許可官庁である県もほとほと手を焼いたようである。結局、医師会と大きなわだかまりを残したまま、曲がりなりにも、産組病院は開設の運びとなった。

(文:鳥畠康充)

 

第4回 全国初の産業組合病院、産声を上げる

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高岡病院の生みの親、田中勝二郎は新湊・作道村の産業組合員(現JA)であった。近くに住む働き盛りの小作人が野良仕事中に脳卒中で倒れ、なすすべなく亡くなった。大黒柱を失った家族を容赦ない小作料の取り立てが攻めたてる、そんな光景に心を痛める日々が続いた。
昭和6年、高岡の伏木において産業青年連盟(現在の農協青年部)の県の大会が開かれた。大会では農業恐慌からの農村経済復興について議論が終わり、閉会された。と、その直前、田中がすっくと立ちあがり発言を求めた。「医療費の心配をすることなく安心してかかれる我らの総合病院を作れないだろうか」。若干26歳・農民青年の夢物語とも思える主張に、農協の県幹部の宮崎清造が膝を打って「田中さん、あんたの言うとおりだ。必ず実現しよう。」
5年後の昭和11年9月29日、産業組合病院(産組病院)は産声を上げた。それまで全国的には、一地区のJAが単独で医院をもつ形態であった中心であったが、「全県一円の農家組合員を利用者」とする農協の連合会としたのは、当院が全国で初めてであった。現在、電話番号下4桁(3930)は、産(3)組(93)にルーツをもつ。
しかし、この初産は、空前絶後の難産となった。産婆の数が全国一少ないからではない。全国一激烈な設立反対運動にあったからだ。こともあろうか、抗争の相手は富山全県の医師会であった。

(写真所蔵および時代考証:大浦栄次   文:鳥畠康充)

第3回 時代背景

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前回まで昭和29年の病院大火について書いた。時計の針を四半世紀分、逆に回し、当院を産み落とした時代背景について述べる。昭和4年、ニューヨークに端を発した世界大恐慌は、日本経済を完膚なきまでに叩きのめした。なかでも、日本で最も貧しい農村の一つであった富山にあって、その窮状は目を覆うばかりであった。高岡病院大火の際、救世主となった内藤友明は自らの詩集に、当時の農村の惨状をこう詠んでいる。
「神もなき 佛もいまさぬか農村は きびしく さびれ救う道なし」
また、大浦は「厚生事業50年の歩み」の中で、洒落っ気たっぷりの名文をさらりと残している。
「疫病神と貧乏神以外の神仏はすべて、農村を見離した」
医者は治療費の払えない農民を捨てて街に移り、無医村が激増した。医療の貧窮を示すパラメーターである乳児死亡率において、富山は全国一の最悪県に転落した。産婆も村を捨てたからだ。
窮鼠猫をかむ——–銭がない、医者がいない、産婆がいない、神も仏もいない。そんなナイナイづくしの村で、1人の青年農民が大声を上げた。名を田中勝二郎という。以下、次号に続く。

(写真所蔵と原文:大浦栄次  本文:鳥畠康充)

第2回 大火からの復興

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病院の8割が焼失した産組病院(当時の名称である)。焼け焦げた柱しか残っていない。病院経営陣は、「農協に再建は不可能である。もし存続できるとすれば経営権を県に移管するしか道はないだろう」という意見が趨勢を占めた。一方、看護師たちは、「泣くのは、焼け木を拾ってからにしよう」を合言葉に、歯を食いしばって再建を目指した。彼女たちの一途な想いと、開設以来18年間愚直に培った当院への信頼は、再建を要望する農家組合員や地域住民による怒涛の声を創出し、市や県を突き動かした。とどめとなったのは当時の農林政務次官が、「産組病院は絶対存続すべし。国は資金援助に全力を尽くす」と決意表明したことである。
「おらが病院を潰すな!」
農林次官の決意表明に呼応した県下270すべての農協から、半年もしないうちに再建に要する清銭が次々と集まった。
ここで、一つの疑問が生じる。なぜ、一民間地方病院に国がこれほどまで肩入れしたのか?
答えは至極明快である。その政務次官・内藤友明が高岡人だったのだ。彼は、10年に及ぶ衆議院議員の後、新湊市長として富山新港の開港に心血を注いだ。裏日本と呼ばれ続けた屈辱をバネに富山県から新たな時代を開拓しようとしたのだ。
郷土愛にあふれる偉人が、たまたま病院焼失という大災難時に農林政務次官のポストにいた奇跡- – - 。
「産組病院よ、お前は郷土のために生き延びよ !」 
焼け野原の遥か上空で、天の声が雷鳴のごとく轟き渡った。

(写真所蔵:大浦栄次  文:鳥畠康充)

 

第1回 最大の試練 病院焼失

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(写真撮影:当時の小児科医師 塚本政次先生)

今年度から本所健康福祉課・大浦栄次さんが収集した写真を元に、厚生連高岡病院の歴史を紐解く。当院は、昭和11年に開設されたが、わずか20年たらずで閉院の危機を迎えた。戦後の混乱から、ようやく立ち上がろうとした矢先の昭和29年4月10日、給食炊事場から出た火はまたたく間に病院の8割を焼き尽くした。しかし、死者は0人。戦火をかいくぐって復員したばかりの勇壮な職員たちによる決死の患者避難があったからだ。

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携帯カメラがない時代に、なぜ窓から飛び降りる人を捉えたスクープ映像があるのかわからない。ただ、空を覆いつくし一面に立ち込める煙は、この火事の大きさをいかんなく物語っている。積み重ねられた布団は2階からの飛び降りに備えたものだろう。大火の後、閉院すべし!という声があがった。この危機を先人たちはいかに乗り越えたか?次回、乞うご期待!
(写真所蔵:大浦栄次  文:鳥畠康充)